晴佐久昌英神父を研究する

晴佐久昌英神父様についての評価を集めていきたいと思います。いわゆる口コミブログです。この神父様には両面あります。気さくであることは長所、対して都合の悪い教理を否定したり、無責任、軽すぎるなど批判も聞かれます。実際はどうなのか、評価を集めていきたいと思います。

晴佐久昌英神父を批判する(転載)

「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13・3)、「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(二テモ4・3-4)。

今月15日、及び22日付の『東京新聞』朝刊に、晴佐久昌英神父の寄稿が掲載された。「宗教の普遍性」という表題だが、内容は従来の「福音“万人救済”宣言」である。そこには「救い」「必ず」「全て」の文字が躍り、聖書に替えて「キリスト教憲法」(15日付同紙)や「神仏ご自身の愛のことば」(同22日付)が登場する。「それでも、私は救われているとしか思えない」という晴佐久神父は、「キリスト教は『あなたはもうすでに、救われている』と宣言している。神は全ての人を愛しており、必ず救うからである」と結論付けた。

だが、『東京新聞』の賢明な読者は次のような疑問を抱くに違いない。「ヒトラースターリンも救われていたのか」「(カトリック教会が認めない)同性愛者も救われているのか」。確かに、神は全ての人の救いを望んでおられるが(一テモ2・4)、必ずしもそれが「無条件」ではないことは、聖書の多くの言葉(注1)、カテキズムの教え(注2)からも明らかだ。私たちが「救われている」のであれば、イエスが「地獄」の恐ろしさを強調されることはなかったし、カトリック教会が私審判や公審判、煉獄や地獄を教える必要もない。

晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」や説教(というよりも「演説」)は、人間にとって「都合の良い言葉」だけで潤色され、聖書の「不都合な真理」については沈黙する(注3)。だが、それは「一時的な平安」「その場しのぎの癒し」による「救われた気分」という錯覚に陥らせることはあっても、「霊魂の救済」とは成り得ないだろう。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(二コリ5・10)

奇妙なことに、晴佐久神父は「どのようにして救いは実現するのか」について曖昧となる。ただ「救われる」と力説しているだけなのだ。この点、正教会カリストス・ウェア府主教が「三つの大切な問い」を通して、「救いとは何か」を考える機会を提供された(注4)。第一は「私たちは何から救われるのか」(出発点)、第二は「私たちはどのように救われるのか」(道筋)、第三は「何に向かって救われるのか」(旅の終局)。何となく「救われている」と浮かれていた人々は、それが単なる「感傷的信仰」と気づくのではないか。

「あなたは救われたのですか」という質問に対し、ウェア府主教は次のように答えている。「『はい、救われました』とはとても答えられません。そんな風に答えたなら、救いは成就した事実、実現された事実として、もう既に今ここにあることになってしまいます。(中略)ちょうどよいのは、『救われました』と答える代わりに『神の慈憐と恵みによって、救われつつあることを信じています』と現在進行形で答えることでしょう」。さらに、「師父シソエスにならって答えましょう。『悔い改めを始めたかどうかさえも疑わしいのです』と」。

日本のカトリック教会は晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」に迎合しつつある。そこでは神よりも人間の都合が優先され、「フレンドリーなイエス」を拝み、十字架は単なるアクセサリーだ。「何だかよく分からないが、私たちは救われた」と小躍りしている人々は、「復活の栄光」よりも目先の「ご利益」を追い求めている。「公会議の精神」「日本人の感性に合った宣教」の掛け声と共に、こうした「救い」の世俗化は避けられそうにない。私はイエスの全てを伝えようとしない晴佐久神父とその「福音“万人救済”宣言」を批判する。

「天を仰げ、地の為に之(これ)を失ふな。地獄を眺めよ、一時の快楽(たのしみ)の為にその中に入るな。イエズス・キリストを思へ、世間の為に主を否み奉るな」(聖フランシスコサレジオ『信心生活の入門』より)


(注1):『聖書』マタイ7・21、マタイ10・28、マタイ13・40-43、マタイ25・41-46、マルコ9・43、黙示21・27など。
(注2):『カトリック教会のカテキズム要約』135項、171項(但し262項)、208項、210項、212-214項など。
(注3):2013年7月21日付『カトリック新聞』投書欄で「イエスの厳しい言葉を重く受け止めていない」と指摘された晴佐久神父は、「そういう言葉だけ取り出して説明することで、どれほど多くの人が苦しんできたかを考えてほしい」と反論(同日付「説教」より)。だが、晴佐久神父も「都合の良い言葉だけ取り出して説明」している。「多くの人が苦しんできた」以下の発言は同調圧力を伴った「おためごかし」だろう。晴佐久神父は「福音“万人救済”宣言」正当化のため、聖書の言葉に恣意的な「優先順位」をつけている。
(注4):「三つの大切な問い」の回答は、ウェア府主教著『私たちはどのように救われるのか』を参照。正教の「原罪」観は異なるが、本書は「救いとは何か」についての有益な示唆に富む。ご一読をお薦めする。

◆主な参考文献など: 
・「カトリック教会のカテキズム要約」 日本カトリック司教協議会監訳(カトリック中央協議会・2010年)
・「カトリック要理(改訂版)」 カトリック中央協議会編(中央出版社・1992年版)
・「信心生活の入門」 聖フランシスコサレジオ著、戸塚文卿訳(日本カトリック刊行会・1931年)
・「私たちはどのように救われるのか」 カリストス・ウェア主教著、水口優明、松島雄一共訳(日本ハリストス正教会西日本主教教区教務部・2003年)

 

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