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晴佐久昌英神父を研究する

晴佐久昌英神父様についての評価を集めていきたいと思います。いわゆる口コミブログです。この神父様には両面あります。気さくであることは長所、対して都合の悪い教理を否定したり、無責任、軽すぎるなど批判も聞かれます。実際はどうなのか、評価を集めていきたいと思います。

カソリック多摩教会に関わって 差別と偏見と事実と違う妙な噂を立てられて

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10157480670

東京都多摩市にあるカソリック多摩教会に関わって 差別と偏見と事実と違う妙な噂を立てられて地域の日常生活に多大な実害を及ぼされています。 晴佐久神父という特殊なネットを駆使して布教をしている奴で 例えば「新聞は読むな」等の所謂「戒律」を平然と言えば信者が読むことをはばかるようになったり…。私は一応カソリック系の大学を卒業して一部上場企業に16年もいて米国でFAAの訓練もしたり 米国の雑誌の「サイエンス」の特派員の秘書やらと第一線でやって来た人間には 稚拙でくだらないことなので理解が出来ず 集中攻撃を浴びています。私はおこがましいようですが生まれも育ちもかなり良い方ですが 多摩教会の奴らはそうでもなさそう。特に晴佐久って一体ネット布教をしたり 大したことがないことをベラベラ言っているのに どんな「魅力」があるのかが疑問。誰か教えてください (T-T)

晴佐久昌英神父様は LGBT friendly : 神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容する.

晴佐久昌英神父様は LGBT friendly
晴佐久昌英神父様は LGBT friendly : 神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容する.


2016年5月29日,カトリック浅草教会にて

本年4月から浅草教会と上野教会の主任司祭を兼任していらっしゃる晴佐久昌英神父様は,今,日本で最もカリスマ的な神父様のひとりです.彼の熱のこもった御ミサは,お御堂にいっぱいの信徒を引きつけます.

昨日(2016年7月3日),LGBT+ の人々のカトリック司牧の問題について質問したところ,以前から彼のまわりには LGBT+ の人々が自然に集まってくる,とのこと.どこに来ればイェス様による救いと出会うことができるか,噂をたよりに遠方からでもやってくるようです.晴佐久神父様は,今までにも多くの LGBT+ の人々に洗礼を授けてきました.
Transsexual の人々が必要とする SRS [性別修正手術]についても,それが当人の救いのためになるなら容認されるべきだ,とのお考えです.実際,既に幾人かの transsexual の人々の transition に寄り添い,洗礼を授けました.

入門講座や講演に引っ張りだこでとてもお忙しい晴佐久神父様ですが,時間の都合が合えば LGBT+ 特別ミサの司式も是非引き受けたい,とおっしゃってくださいました.

実現するよう,皆でお祈りしましょう!


LGBT カトリック・ジャパン ホームページより参考資料として引用)

 

LGBT 特別ミサ

LGBT 特別ミサが日本のカトリック教会の歴史上初めて行われました
2016年07月17日,予定どおり,日本のカトリック教会の歴史上初めての LGBT 特別ミサが行われました.主に感謝します.そして,司式してくださった神父様,お御堂を使用させてくださった施設の方々,ミサでさまざまな奉仕をしてくださった方々に感謝します.

個人情報の保護のため,当日,写真撮影は一切行いませんでした.したがって,ここに提示できる記念写真のようなものもありません.

共同祈願で,わたしはこのように祈りました:

「神の愛にこころを閉ざす律法中心主義のせいで,キリスト教は,その全歴史において,LGBT を断罪し,sexual minority の人々を差別してきました.しかし,先月,教皇 Francesco は,そのような過ちについてキリスト教徒は赦しを請わねばならない,とお認めになりました.隣人愛を本当に実践しようとする司牧者をわたしたちに使わしてくださった主に感謝します.神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容します.カトリック教会が差別と偽善をすべて退け,まことに神の愛の家となりますように.」

教皇 Francesco の包容精神がカトリック教会のすみずみにまで行きわたるよう,祈りましょう.

わたしにとって,今回の御ミサの大きな収穫のひとつは,今後 LGBT カトリック・ジャパンの代表として活躍し得るだろう LGBT の人々と出会えたことです.これからも,多くの出会いを期待したいと思います.

今までにも幾度か強調してきましたが,LGBT カトリック・ジャパンが望んでいるのは,閉じられた「仲良しグループ」を作ることではなく,而して,LGBT の人々がカトリック教会共同体に何の気がねもなく参加し得るようになることです.

そのためには,教皇 Francesco が「同性愛者差別の長い歴史について,カトリック教会は謝罪せねばならない」とおっしゃったことを踏まえて,LGBT の人々のための司牧の態勢を早急に整えてくださるよう,日本カトリック司教協議会に要請して行きたいと思います.その際,司教協議会の社会司教委員会のなかに,部落差別人権委員会,子供と女性の権利擁護のためのデスク,HIV/AIDS デスクなどに加えて,LGBT 司牧委員会を設置することを提案したいと考えています.

LGBT 司牧の問題について相談するために今までにお目にかかった神父様たち ? うち,幾人かのお名前を挙げるなら,幸田和生司教様,小宇佐敬二神父様,Juan Masia 神父様,片柳弘史神父様,晴佐久昌英神父様 ? は皆,教皇 Francesco の包容の精神を共有してくださっています.LGBT を断罪する声が日本のカトリック教会から一掃されるのも,遠い先のことではないでしょう.

しかしながら,当分の間,LGBT の人々が気がねなく御ミサに与れる機会を提供するために,LGBT の人々だけのための特別ミサを今後も原則的に毎月一回,継続して行きたいと思っています.第二回は,8月28日午後,小宇佐敬二神父様の司式により行われます.第三回は,9月25日午後に予定されています.詳細は別途お知らせします.

司教様たちに伝えたいお気持ちや御意見,御要望などを,LGBT カトリック・ジャパンへ e-mail でお寄せください.匿名で結構です.普段お使いの mail account ではなく,LGBT カトリック・ジャパンと連絡を取るための専用の account を Gmail などで取得して御使用になれば,より匿名性が高まります.

神の愛は,誰をも排除せず,あらゆる人を包容します.イェス様におすがりしましょう !

 


LGBT カトリック・ジャパン ホームページより参考資料として引用)

カトリック多摩教会の去年までの入門講座に出ていた者ですが

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14165399369

カトリック多摩教会の去年までの入門講座に出ていた者ですが カトリックに対しての嫌悪感を抱いてしまいまして相談致します。 晴佐久神父というカトリック会の寵児と自負しその誉れ高い方の入門講座でしたが 怒りに任せては「主もマグダラのマリアなんかよりも母のマリアの方が好きに違いない。」だとか「あのイグナチオのあの神父は異端だから駄目だ。」等と平気で言っていらっしゃいました。そしてエコ贔屓はするし 精神病の信徒のGさんに精神病患者や近くの桜が丘記念病院という精神病院や多摩センターにある多摩精神福祉センターという三多摩地区の中間施設の入所者をかき集めさせたり 自作の聖劇と称するミュージカルをしてはDVDを買えだとか自身の著作物を買えだとかと入門講座を利用しては何だか非常に不愉快極まりない言動をなさいました。2017年の4月に浅草と上野の教会を兼任されるために異動なさいましたが 彼を慕って遠方から集まって来た信徒や入門講座に出席して3月に受洗した方々にはイジメられたり 残った去年度の諏訪永山聖が丘地区の委員長だったN夫妻には差別を受けて罵倒されたり無視をされたりと 晴佐久神父の取り巻き連中にはもうこりごりです。先日その事をこちらで質問しましたが信徒によって削除されたみたいですのでまたお聞き致します。どうすれば良いのでしょうか?

多摩教会(当時) H司祭について

多摩教会(当時) H司祭について

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1477057569

神父の横暴な態度に我慢の限界です。どこに相談すれば良いのでしょうか?

私が所属している教会のH神父は、最近他の教会から転任してきたのですが、信じられないくらい横暴で自分勝手な人物で正直困っています。たとえばこんなことがありました。

教会内でやるバザーで配る野菜を袋に入れる作業をしてました。野菜を提供してくださった農家の方のご厚意で予想をはるかに超える量の野菜を送って頂きましたが、そのため袋詰めの作業に思いの外時間がかかってしみました。野菜担当者が黙々と作業しているのをその神父はいすに座って見ているだけ。さらに、作業している信者の一人が神父に手伝ってほしいと言ったら「なんで、自分がそんな雑用をしなくちゃならないんだ」みたいなことを言って手伝いませんでした。しかも、それでその場を立ち去るのならまだ良かったのですが、そのままいすに座ってお茶を飲み始めました。ちなみに、最初にバザーで野菜を売りたいと言い出したのはその神父本人です。

また、こんなこともありました。ある信者が神父が車で出かけていたときに、自分の車を普段神父が止めている駐車スペースに止めました。神父が帰って来て開口一番「誰だ、オレのスペースに車止めたのは?すぐにどかせ!」と怒りをあらわにしました。そのとき、教会の駐車場には空いているスペースがいくつもあったし、神父が普段止めているスペースも信者が車を止める駐車場内にあります。

他にも、自分勝手で横暴な態度をとり続けるH神父には教会の信者の多くが困っています。私が所属する教会は規模が小さい上に、信者の多くが高齢者です。最近では、神父を恐れて来なくなってしまった信者もいます。教会活動を維持するためにも神父には態度を改めて頂かなくてはいけないとお思いますが、我々の忠告を素直に聞くとは思いません。

こうしたときは、どこに相談すればいいのでしょうか?

 

質問した人からのコメント

2011/12/14 10:48:41

皆様、貴重なご意見ありがとうございます。長年お世話になった教会から距離を置くのは残念ですが、教会活動を最小限にするか別の教会におじゃましようかと思っています。私の教会の周りには近い範囲に何カ所か教会があります。離れていった信者も周りの教会に行っています。salanoki95さんをベストに選ばせて頂いた理由は、お話が非常に具体的で私が考えてもいなかったことも教えてくださったからです。ありがとうございました。

晴佐久昌英神父を批判する(転載)

「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカ13・3)、「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(二テモ4・3-4)。

今月15日、及び22日付の『東京新聞』朝刊に、晴佐久昌英神父の寄稿が掲載された。「宗教の普遍性」という表題だが、内容は従来の「福音“万人救済”宣言」である。そこには「救い」「必ず」「全て」の文字が躍り、聖書に替えて「キリスト教憲法」(15日付同紙)や「神仏ご自身の愛のことば」(同22日付)が登場する。「それでも、私は救われているとしか思えない」という晴佐久神父は、「キリスト教は『あなたはもうすでに、救われている』と宣言している。神は全ての人を愛しており、必ず救うからである」と結論付けた。

だが、『東京新聞』の賢明な読者は次のような疑問を抱くに違いない。「ヒトラースターリンも救われていたのか」「(カトリック教会が認めない)同性愛者も救われているのか」。確かに、神は全ての人の救いを望んでおられるが(一テモ2・4)、必ずしもそれが「無条件」ではないことは、聖書の多くの言葉(注1)、カテキズムの教え(注2)からも明らかだ。私たちが「救われている」のであれば、イエスが「地獄」の恐ろしさを強調されることはなかったし、カトリック教会が私審判や公審判、煉獄や地獄を教える必要もない。

晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」や説教(というよりも「演説」)は、人間にとって「都合の良い言葉」だけで潤色され、聖書の「不都合な真理」については沈黙する(注3)。だが、それは「一時的な平安」「その場しのぎの癒し」による「救われた気分」という錯覚に陥らせることはあっても、「霊魂の救済」とは成り得ないだろう。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(二コリ5・10)

奇妙なことに、晴佐久神父は「どのようにして救いは実現するのか」について曖昧となる。ただ「救われる」と力説しているだけなのだ。この点、正教会カリストス・ウェア府主教が「三つの大切な問い」を通して、「救いとは何か」を考える機会を提供された(注4)。第一は「私たちは何から救われるのか」(出発点)、第二は「私たちはどのように救われるのか」(道筋)、第三は「何に向かって救われるのか」(旅の終局)。何となく「救われている」と浮かれていた人々は、それが単なる「感傷的信仰」と気づくのではないか。

「あなたは救われたのですか」という質問に対し、ウェア府主教は次のように答えている。「『はい、救われました』とはとても答えられません。そんな風に答えたなら、救いは成就した事実、実現された事実として、もう既に今ここにあることになってしまいます。(中略)ちょうどよいのは、『救われました』と答える代わりに『神の慈憐と恵みによって、救われつつあることを信じています』と現在進行形で答えることでしょう」。さらに、「師父シソエスにならって答えましょう。『悔い改めを始めたかどうかさえも疑わしいのです』と」。

日本のカトリック教会は晴佐久神父の「福音“万人救済”宣言」に迎合しつつある。そこでは神よりも人間の都合が優先され、「フレンドリーなイエス」を拝み、十字架は単なるアクセサリーだ。「何だかよく分からないが、私たちは救われた」と小躍りしている人々は、「復活の栄光」よりも目先の「ご利益」を追い求めている。「公会議の精神」「日本人の感性に合った宣教」の掛け声と共に、こうした「救い」の世俗化は避けられそうにない。私はイエスの全てを伝えようとしない晴佐久神父とその「福音“万人救済”宣言」を批判する。

「天を仰げ、地の為に之(これ)を失ふな。地獄を眺めよ、一時の快楽(たのしみ)の為にその中に入るな。イエズス・キリストを思へ、世間の為に主を否み奉るな」(聖フランシスコサレジオ『信心生活の入門』より)


(注1):『聖書』マタイ7・21、マタイ10・28、マタイ13・40-43、マタイ25・41-46、マルコ9・43、黙示21・27など。
(注2):『カトリック教会のカテキズム要約』135項、171項(但し262項)、208項、210項、212-214項など。
(注3):2013年7月21日付『カトリック新聞』投書欄で「イエスの厳しい言葉を重く受け止めていない」と指摘された晴佐久神父は、「そういう言葉だけ取り出して説明することで、どれほど多くの人が苦しんできたかを考えてほしい」と反論(同日付「説教」より)。だが、晴佐久神父も「都合の良い言葉だけ取り出して説明」している。「多くの人が苦しんできた」以下の発言は同調圧力を伴った「おためごかし」だろう。晴佐久神父は「福音“万人救済”宣言」正当化のため、聖書の言葉に恣意的な「優先順位」をつけている。
(注4):「三つの大切な問い」の回答は、ウェア府主教著『私たちはどのように救われるのか』を参照。正教の「原罪」観は異なるが、本書は「救いとは何か」についての有益な示唆に富む。ご一読をお薦めする。

◆主な参考文献など: 
・「カトリック教会のカテキズム要約」 日本カトリック司教協議会監訳(カトリック中央協議会・2010年)
・「カトリック要理(改訂版)」 カトリック中央協議会編(中央出版社・1992年版)
・「信心生活の入門」 聖フランシスコサレジオ著、戸塚文卿訳(日本カトリック刊行会・1931年)
・「私たちはどのように救われるのか」 カリストス・ウェア主教著、水口優明、松島雄一共訳(日本ハリストス正教会西日本主教教区教務部・2003年)

 

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